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別々のページだった「旅行記」を一つのページにまとめた。
2010年 サンフランシスコ
2010年 アメリカ東海岸(ニューヨーク、ワシントン、ボルチモア、フィラデルフィア)
2009年 サンフランシスコ
ホーム サンフランシスコ旅行記
(2010年11月3日~11日)
 
友達二人とサンフランシスコへドライブ旅行してきた。今回も、日本からやってきて小栗上野介関連であるシンポジウムに参加する兄をアシストするためだ。簡単に旅行記を書いてみた。Picasa ウェブアルバムを参照。
日にち 曜日  行動 宿泊地
3日 水  6:15AM マヤさんをピックアップして、ウーさん宅に集合。ウーさんの新車で出発~~~!。

ポートランド(オレゴン州)で昼食。さらに走って、夕方、Yreka ワイレカ*に到着。運転時間11時間。私も少し運転させてもらった・・・(*^_^*)。実に快適な車で、帰宅してから自分の“クラシックカー”が嫌になりそう・・・(・_・;。天気も素晴らしく、途中、カスケード山脈の火山がいくつも見えた。

* Yreka は読み方が分からず、ホテルのスタッフに「ワイレカ」を確認した。グーグルマップで「イリーカ」と書かれているのは間違い。相変わらずお粗末なグーグルマップさんだ。
Yreka ワイレカ
(カリフォルニア州)
4日 早朝(7時ころ?)ワイレカを出発。またしても素晴らしい天気だ。カリフォルニア北部はかなりの乾燥地帯で、あちこちに牧場が見える。

まもなくして前方に Mt. Shasta マウント・シャスタが雄姿を現した。去年、兄とドライブしたときには、夜、通過したため見えなかった山だ。4千メートル以上あるこの山は実に雄大だ。写真をバチバチ撮った。近くのキャッスル・レイクに寄り道し、その途中からもまたバチバチ。

  
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山岳地帯を越えて平野部に入り、昼食は Redding レディング(カリフォルニア州北部)で食べた。また走り始めた。サクラメントまで約2時間だ。南下するにつれてますます乾燥した大地が広がる。オリーブなどさまざまな果樹園があった。サクラメントに近づくと次第に米作農地が増えてきた。地平線まで続く“田んぼ”には圧倒される。

サクラメントを過ぎて、夕方、Placerville プラサービスの町にある「おけいの墓」に着いた。墓のすぐそばにある小学校の校長先生が出てきて、墓への”秘密の通路”を教えてくれた・・・と言っても、私は去年通ったので知っていたのだが・・・(^_^;。墓は、去年と同じく枯れ草の丘にひっそりとたたずんでいた。去年はカラカラに乾いていたが、今年はすでに雨期に入っているためか、地面には緑の草も見えた。

* おけいの墓は、小学校の右に二つある木々の塊のうち、学校寄り(つまり左側)の塊の下にある。敷地全体が柵で囲まれているので地元の人の案内がないと入れない。学校を覗けば、誰かが助けてくれる。
Livermore リバーモア
(カリフォルニア州)
5日 10時ころ、サンフランシスコ空港に到着した兄を迎えた。予定よりもかなり早く着いたらしく、私たちが到着してすぐに出てきた。ホテルチェックインが3時なので少し時間を潰すべく、コルマ市の咸臨丸水兵の墓とゴールデンゲートブリッジを見渡す高台にある咸臨丸の碑を回った。ゴールデンゲートブリッジの下にある砦フォート・ポイントにも下りてみた。

昼食はフィッシャーマンズワーフで。そして、ホテルにチェックインし、兄と私はシンポジウム会場 Asian Art Museum of San Francisco に行き、担当者とシンポジウムの打ち合わせを行った。夜は、遣米使節の件で尽力していただいている方のご自宅に4人で招かれた。
サンフランシスコ
(マヤさんとウーさんは別ホテル)
6日 兄と私は、8時半に Asian Art Museum of San Francisco に出向き、担当者とシンポジウムの打ち合わせを継続。

10時半からシンポジウムが始まった。何人かの講演者のあと、兄が講演した。聴衆のほとんどがアメリカ人で通訳を必要とするため、やりにくさはあったようだが、分かりやすく展開してかなり良かった。

午後5時からは主催者によるレセプション。それも30分くらいで失礼して、兄が去年行った有名なジャズクラブ"Yoshi's"*に行き、マヤさん&ウーさんと合流。おいしい食事と音楽を楽しんだ。

* 日本人女性が始めた店だ。ご主人は曹洞宗のお坊さんで、去年、兄と私はご夫婦にお会いしている。いまやジャズの世界では「東のブルーノート、西の Yoshi's」と言われるほどなのだそうだ。この日も、グラミー賞を取ったことのある女性歌手が出演していた。
サンフランシスコ
7日 兄の希望で、咸臨丸が修理を行ったメア島 Mare Island の博物館に行った。以前、アメリカの海軍基地があった島だ。

兄が知人から紹介された博物館のガイドさんが丁寧に案内してくれた。かなり高齢のおばあちゃんだったが、とても元気が良い。「足がペダルに届かないのでは」と心配したくなるほど小柄なのに、車もすいすい運転する。その上、ふつうなら入れない区域にまで案内してくれた。

メア島から北回りで、小奇麗な町 Sausalite ソウサリート*の町に行き、お茶を飲んだ。その後、ゴールデンゲートブリッジをわたって帰る。

* Google Map では「サウサリート」と書かれているが、これもかなり怪しい表記だ。もっとも、これはもう”定着”してしまった表現のようだが。
サンフランシスコ
8日 レッドウッド redwood の巨木の森 Muir Woods National Monument を見学に行った。レッドウッドはセコイアの一種で、アメリカでは90%が切り尽くされ、今は僅かにカリフォルニアからオレゴンにかけての海岸沿いの森にしか残っていない。

  
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帰途、谷あいに"Zen Center" と書かれている看板を兄が見つけ下りてみた。そこには禅宗の施設があり、人々が修行していた。日本人の方がひとりおられて、施設内をいろいろ案内してくれた。

帰りはまた、ソウサリートによって食事をして帰ってきた。

サンフランシスコに来たのは三回目だったが、過去二回はばたばたとして街をゆっくり見られなかった。今回はわりとゆっくり見られて、街の様子を知ることができた。それにしても、バンクーバーが"坂ばかり”の町と思っていたのだが、それ以上に急斜面があったのにはびっくりした。

サンフランシスコ
9日 9時ちょっと前に、日本に帰る兄をサンフランシスコ空港で見送った。その後、オールドサクラメントに行った。サクラメント市の旧市街は、まるでガンマンがサロンのドアを開けて出てきそうな雰囲気だ。州立の鉄道博物館があったので見学した。

そこから4時間余りかけてマウントシャスタの町までドライブした。ホテル到着後、夜半に雪が降り始めた。
Mt. Shasta
マウントシャスタ
(カリフォルニア州北部)
10日 朝起きたら、ホテルの屋根や木々の葉が雪で覆われていた。幸い、地面には雪がなく運転には支障がなかった。標高が1,000メートルを超えるとはいえ、バンクーバーからこれ程南下したところで11月に雪が降るとは、まったく想像もしなかった。バンクーバーと異なり内陸の町だからかもしれない。

バンクーバーを出発する前に、マヤさんがこの町に禅宗(曹洞宗)の修行道場 Shasta Abbey Buddhist Monastery があるのを見つけていた。兄にそのことを連絡したら、友人の娘さんの供養をお願いしてきて欲しいと頼まれた。ロサンジェルスに住んでいた娘さんは、2年前にマウント・シャスタで遭難死したのだ。Shasta Abbey は、町外れの林の中にあった。

ウェブサイトでは「訪問者は午後」と書かれていたので、入れてもらえるかどうか分からなかった。しかし、鉄製のゲートについていたインターフォンを押すと、白人の尼さんが出てきて心よく案内してくれた。どうやら”尼寺”のようだった。事情を話し、お線香を上げお包をしてお参りしてきた。

変わっていたのは、屋内ではアレルギー症の人たちのために、お線香に火をつけないことだ。代わりに、屋外(渡り廊下)にある仏像に火のついたお線香を上げた。

それにしても、カリフォルニアは仏教が盛んだ。8日の Zen Center の日本人も言っていたが、アメリカ人には、「在来の宗教は古いが、仏教は新しい」と感じられるのだろうか。世界で“最も平和な宗教”の一つである仏教が広まるのは嬉しいことだ。世界中でどれほどたくさんの人間が、宗教上の争いで殺されていることか。

Portland
ポートランド
(オレゴン州)
11日 天気予報に反して雨が降らなかったので、ワシントン州に入ってすぐのところにある野生動物の保護区 Ridgefield National Wildlife Refuge リッチフィールド国立野生動物保護区に寄った。

  
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コロンビア川に沿った湿地帯は広大で、数キロのコースを車で回る。特定の2ヶ所以外は車から降りてはならない決まりになっている。これは素晴らしいアイデアだった。というのは、車を見ても野鳥は人間と認識しないから、逃げないのだ。車から数メートルのところにワシタカ類がいたりする。

帰りは、シアトルの Uwajimaya で食事をして帰ってきた。Uwajimaya があんなに大きな店になっているとは知らなかった。普通のスーパーのような感じで、日本人以外の一般客でごった返していた。
帰宅
     




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(2010年8月29日~9月11日)
2010年8月29日~9月11日の間、日本から来た兄と一緒にアメリカ東海岸の諸都市を歴訪し、小栗上野介が参加した万延元年遣米使節(1860年)についての調査を行った。
日にち 行動 宿泊地
8月29日(日) マヤさんに送ってもらって空港へ.。空港では、”秘密ゲート”のハプニングに遭遇。これが、ハプニング続きの旅の始まり。

22:50 バンクーバー空港から出発(キャセイ航空888便)

飛行中、中国人のかわいい兄弟に睡眠妨害されて寝むれず・・・(^_^;。

機内
8月30日(月) 07:05 ニューヨークJFK空港到着

兄の到着までブルックリンブリッジあたりまで散策し、15時ころ空港に戻った。

16:00 デルタ航空172便で到着した兄を出迎えた。

兄の到着ターミナルが No. 3 から No. 4 に変更されたのに、到着後40分もたってから知らされ、あわてて No. 4 に飛んで行った。「アナウンスとか張り紙とかしたらいいのに」とブツブツ言いながら・・・(・_・;。

ニューヨーク
Comfort Inn Manhattan
8月31日(火) 31日

午前、遣米使節の行進ルートを追う。

34度の猛暑でしかもバンクーバーにはない湿度の中を、一生懸命歩いた。

午後、在ニューヨーク日本総領事館訪問。

総領事館訪問に備えて長ズボン二着を用意していた。しかし、バンクーバーでは経験したこともない猛暑にたまらず、短パンのままで行った。兄も、「旅行者だからいいだべえ」ということだったので・・・(^_^;。

これが”カジュアル化”の始まりで、旅行中、長ズボンを使うことは皆無だった。それどころか、旅行中盤からは、ジョギング用に持参したジョギング・スーツでほとんどをすごしてしまった。


市立博物館の「遣米使節団150周年記念」展示会を訪問。

通常の展示会の2倍のペースで見物人が来るという説明に、驚くやら嬉しいやら・・・(^_^)。会期を延長した理由がよくわかった。

1日~2日 

遣米使節が上陸した埠頭付近から、ブロードウェイ、ユニオンスクエア、メトロポリタンホテル跡地などをたどった。また、船でやってきた遣米使節の気分を味わうため、フェリーで自由の女神まで行ってみた。

図書館などで遣米使節関連の情報を集めた。特に、ニューヨーク公共図書館(New York Public Library)では貴重な資料を入手することができた。

マンハッタンの交通ルール無法状態に驚かされる。車の信号無視、車線無視、歩行者の赤信号横断、横断歩道以外での横断、赤信号なのに交差点のど真ん中で立ち往生する車、クラクションの頻発使用・・・。

滞在中、遣米使節のルートをたどるため、連日、かなりの距離を歩いた。たとえば、1日にはマンハッタンの南端から遣米使節ルートをたどって行ったら、ユニオンスクエア Union Squire を超えて、ホテルのある 35th Street まで歩いてしまった。”運動不足気味”の兄も頑張った・・・(^_^)。

ホテル:Comfort Inn Manhattan は1925年築の古い建物だ。そのため、空調が部屋ごとになっていて、夜、エアコンの音がうるさかった。しかし、ホテル全体はきれいに装飾が行われていて、クラシックで落ち着いた雰囲気だった。それにしても、ニューヨークのホテルはバカ高い。もう少しましなホテルを考えたのだが、ワシントンでウィラードホテルに泊まりたかったので、ここで我慢した。それでも、ウィラードホテルと数十ドルしか違わないのだ・・・(・_・;。


ニューヨーク
Comfort Inn Manhattan
9月1日(水) 
9月2日(木)
9月3日(金) ニューヨークからワシントンへレンタカーで移動。

途中、遣米使節が鉄道から船に乗り換えたサウスアンボイ South Amboy (ニュージャージー州)を訪ね、図書館などで情報を集めた。


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ワシントンは、ニューヨークと対照的で非常に整然とした街並みだ。摩天楼がないので、空が大きくて気持ちが落ち着く。道路が広くて歩道がゆったりとってある。街を歩く人が少ない・・・実際にはかなりいるのだが、道路が広いため、まばらに見える。

また、ホワイトハウスや国会議事堂周辺の広大な公園地帯の他、博物館がたくさんあるから、ある意味では、ニューヨークよりも観光地としてはおもしろいかもしれない。


ワシントン
ウィラードホテル
9月4日(土) アメリカ海軍基地(1860年当時は海軍造船所)を訪問。入れないかと思っていたら、一般公開されていた。しかも、博物館(The U.S. Navy Museum)や歴史センター(Naval Historical Center)もあってたくさんの情報を入手することができた(ただし、後述のように、歴史センターに入れたのは7日だけだった)。歴史センターのサイトにはこのようなページもある。

遣米使節が市内を行進したルートをたどった。

図書館などで遣米使節関連の情報を集めた。

ワシントン南方数十キロにあるマウントバーノンを訪ねた。マウントバーノンには、アメリカ建国の父ともいうべきジョージ・ワシントンの墓所があり、1860年5月14日に遣米使節がポトマック川を船でのぼるときに、アメリカ人の船員たちが墓所に向かって黙祷した。

旅行中、初めは兄と“洋食”ばかり食べていたが、だんだんパン食が耐えられなくなって次第に中華料理が増えた。しかし、ワシントンの中華はあまり美味しくなかった。

また、最初の数日は兄につられて夕食時にビールを飲んだが、次第に飲みたくなくなってきた。というのも、寝付きは悪くないのだが、数時間後に喉が乾いて眠れなくなるからだ。どうやら、自分は本当にノンアルコール人間のようだ・・・(^_^;。


5日と6日の晩、私の念願がかなった。Lincoln Memorial Reflecting Pool (ワシントン・モニュメントとリンカーン・メモリアルとの間の、長方形の池)のまわりをジョギングしたのだ)。一周約15分なので二周した。6日は、兄もリンカーン・メモリアルまで歩いた。


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ホテル:ウィラードホテルは、1860年に遣米使節が泊まったホテルだ。1901年に再建されてはいるものの、私たちは遣米使節と同じホテルに泊まれることに非常な喜びを感じた。築後100年以上だから、ホテル全体にクラシックな雰囲気が漂う。値段はワシントンの他のホテルに比べると高いが、ニューヨークのホテル料金の相場に比べるとかなり安く、 Comfort Inn と数十ドルしか違わなかった。

ワシントン
ウィラードホテル
9月5日(日) 
9月6日(月) 
9月7日(火) 昨日も Labor Day (労働者の日)の祭日でアメリカ海軍基地が三連休だったため、歴史センターにはスタッフが出勤するこの日まで入れなかった。しかし、いろいろ貴重な資料を入手することができて、ワシントンを離れるこの日にあえて歴史センターを訪れた甲斐があった。

ワシントンからボルチモアへ移動した。
ボルチモアの図書館で当時の新聞記事を収集した。
遣米使節の行進ルートをたどった。

ボルチモアも歴史の町らしく、古い建物がたくさんあった。中華料理は、ここもダメ・・・(・_・;。麺類を頼んだら、うどんのようなのが出てきた。

ホテル:Quality Inn はボルチモア中心部にあるホテルだ。建物自体は古くてクラシックな雰囲気が一杯だし、サービスや施設もよかった。ただし、スタッフがもう一つ訓練されていないようだった。たとえば、ロビーのソファでテークアウトの夕食を食べていたりするのだ・・・(^_^;。

ボルチモア
Quality Inn Baltimore Downtown
9月8日(水) ボルチモアからフィラデルフィアに移動した。

途中、遣米使節が列車ごとフェリーに乗って対岸へ渡ったサスケハナ川 Susquehanna 沿岸の町ハーブルドゥグレイス Havre de Grace (地図参照)を訪問。貴重な情報を得ることができた。

[メリーランド州ハーフォード郡訪問地]
Havre de Grace Branch Library ハーヴルドゥグレイス図書館 
Havre de Grace Visitors Center ハーヴルドゥグレイス・ビジターセンター
The Lock House Susquehanna and Tidewater Canal Co. ロックハウス 
The Historical Society of Harford County, Inc. ハーフォード郡歴史ソサエティ
(Richard Sherrill 氏) 

このハーブルドゥグレイスの町、まかり間違えばアメリカの首都になったかもしれないのだとか。1789年にアメリカ議会で、首都の場所を決定する際、議員投票でこの町とワシントンがタイになった。ところが、最後に投票した議長がワシントンを選んだらしい。
参考サイト:"Havre de Grace was very nearly named the Capital of the United States." とある。)



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フィラデルフィア
Four Points Philadelphia City Center
9月9日(木) 図書館で当時の新聞記事を収集した。

遣米使節の行進ルートをたどった。

フィラデルフィアの中華料理はレベルが高かった。どの店に入っても、かなり美味しい食事が出た。ホテルが中華街のすぐそばだったのはラッキー!

ホテル:Four Points は、シェラトン系列のビジネスホテルだが、機能優先でかなり使いやすかった。インターネット接続は無料だし、各階に飲み物の自動販売機が置かれていた。しかも、氷用のバケツが備えられているので、冷蔵庫を使わずに冷やすことができた。バンクーバー(リッチモンド市)にもあり、少なくとも北米各地に展開しているようだ。。


フィラデルフィア
(Four Points Philadelphia City Center )
9月10日(金) フィラデルフィアからニューヨークJFK空港までドライブ。

JFK空港には、兄の出発時刻3時間前には到着する予定で車を走らせた。ところが、携帯GPS(カーナビ)のポカで、マンハッタンの交通無法地帯を通らされることになり、結局、出発1時間15分前に到着するというハプニングだった。一時は、「兄はもう一日ニューヨークを楽しむことになるのか・・・」と観念した・・・(・_・;。

2時ころ日本に出発する兄を見送った。

22:40 自分もバンクーバーに向けて出発した(キャセイ航空889便)。

機内
9月11日(土) 01:00 バンクーバー空港に到着した。

深夜にもかかわらず、ウーさんが空港に迎えに来てくれた。

それにしても、この時間の到着はありがたい。というのは、帰宅してすぐに眠れるからだ。逆に、ニューヨーク到着は朝だったから夜まで眠ることができず、それは辛かった。


旅行全体を通して、滞在した都市や立ち寄った田舎町で、図書館や歴史センターの人たちが実に親切にしてくれたのが印象に残る。私たちが、「あれを調べたい、これを調べたい」というと、親身になって資料を探し出してきて、コピーもほとんどの場合、無料で取らせてくれた。

我が家
     




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(2009年6月)
 
2009年6月、小栗上野介についての講演でアメリカに来る兄をヘルプするため、バンクーバーからサンフランシスコまで初めてドライブ旅行をした。兄をシアトル空港で出迎え、二人でサクラメント経由でサンフランシスコへ行った。兄はサンフランシスコの講演の後、次の講演をするためにロサンジェルスへ向かった。私はその後、一人でバンクーバーまで帰ってきた。総走行距離は 3,500 km だった。
いつかはやってみたいと思っていたカリフォルニアへのドライブ旅行。以前は遠い感じがしていたカリフォルニアも、意外と近いというのが実感だ。地続きだということも"確認できた"し・・・(^_^;。

"運転ばっかり"という旅行だったので、たいして内容はないが、一応、旅行記をまとめてみた。写真集はこちら
日にち 行程 距離 km 行動 摘要 
16(火) バーナビー
Burnaby
(自宅)
240 6:15 am 自宅出発 3時間半かかってもおかしくないのに、2時間40分でシアトル空港に着いてしまった。早朝出発で国境を数分で通過できたのと、シアトル市内がラッシュアワーの後だったがさいわいしたのだろう。 
シアトル
Seattle

(空港)
8:55 am シアトル空港到着  日本から到着した兄を出迎える。無事に会えるか心配だったが、シアトル空港は整然としていて人も少なく、すぐに分かった。
990 10:15 am シアトル空港出発 左にカスケード山脈の火山をいくつか見ながら、主に牧場のような景色の中を走り続けた。南下するにしたがって、樹木が少なくなり乾燥地帯に近づく。昼食はポートランドのベトナム料理。夕食はアシュランド(オレゴン州)の"ビール工場"でピッツァ。 
レディング
Redding

(カリフォルニア州北部)
11:00 pm レディング到着 
(ホテル Quality Inn 宿泊)
17(水) 270 8:00 am レディング出発  
サクラメント
Sacramento
11:00 am サクラメント到着 1800年代の古い町並みが残るオールド・サクラメントを歩き、ポニー・エクスプレスの像を見る。 
80 12:00 pm サクラメント出発 
プラサービル
Placerville
12:45 pm プラサービル到着 エルドラド郡歴史博物館 El Dorado County Historical Museum と「おけいの墓」(学校のすぐ東側の、オークの木の下)を見る。昼食は博物館近くのこれまた"ビール工場"で、"サラダのお化け"。
180 2:30 pm プラサービル出発
ヴァレホ
Vallejo
 
4:00 pm ヴァレホ到着  咸臨丸が修理を行ったメア島の、アメリカ海軍造船所跡地を見る。 
70 4:45 pm ヴァレホ出発
サンフランシスコ
San Francisco 
6:15 pm サンフランシスコ到着
(ホテル Hotel Kabuki 宿泊) 
夕食はジャパンタウンの寿司屋。酢があまり入っていなくて、バンクーバーの寿司屋には完全に負けそうな寿司だった・・・(・_・;。
18(木)  0 サンフランシスコ 滞在(移動なし)
(ホテル Hotel Kabuki 宿泊) 

正午から、北加日本文化コミュニティーセンター(JCCCNC)ホールで、兄が講演
兄の講演は、大成功のうちに終了。昼食はホテル前のレストランに招待された。

講演終了後、現地の人たちと食事をした兄とは別行動で、ホテルに缶詰になって自分の仕事をした。インターネットさえつながれば、どこでも仕事できるのがありがたい。夕食はジャパンタウンのモール内でラーメンギョウザ・・・ギョウザ1個1ドル・・・高いわりにはうまくない・・・(^_^;。夕食後また仕事。
19(金) 80 10:00 am ホテル出発 世話役のSさんの案内で、遣米使節と咸臨丸に関係のある、リンカーンパークバレホ埠頭、タッカー音楽学校跡地、それにコルマの日本人墓地にある咸臨丸水夫三名の墓を見る。昼食は中華街の中華。 
4:15 pm サンフランシスコ空港到着  ロサンジェルスへ向かう兄と、Sさんを空港で下ろし、すぐ帰途に着いた。 
620 4:15 pm サンフランシスコ空港出発
アシュランド
Ashland
(オレゴン州南部) 
(20日)1:00 am アシュランド到着 
(ホテル Motel 6 宿泊)
グーグルマップでは5時間40分の行程だが、80号線がものすごい渋滞で、505号線に入ったのが、7時を過ぎてしまった。結局、アシュランドまで9時間もかかった。夕食はフリーウェー脇のファストフッドで簡単に。 
20(土) 970 10:30 am アシュランド出発 往路はかなり緊張して運転したが、復路は慣れもあってかなり楽に帰ってこられた。ドライブ途中の食事は、フリーウェー脇のファストフッドで簡単に。
バーナビーの自宅  9:30 pm 自宅到着 
総走行距離 3,500 走行距離はもっと長いと思っていたが、意外と短かった。それにしても、仕事期間中なので、アメリカ西海岸の三州(カリフォルニア、オレゴン、ワシントン)をゆっくり見物できなかったのが残念。
* 講演は大成功
18日、サンフランシスコでの兄の講演は大成功だった。当初の予定20人を大幅に上回って、約80人の人たちが熱心に聞き入った。ともかく、小栗上野介や遣米使節のことは、日本の歴史の本には出てこないことなので、みんな驚いていた。

講演が終わって、兄が日本から持ってきた小栗関係の本があっという間に売れてしまった。ともかく、本を机にずらっと並べたら、たくさんの人がど~っと押し寄せて、どんどん本をとっていく。「あれ~、集金ができない~」と悲鳴をあげそうだったが、そこはみなさん、まじめな日本人だ。一人一人お金をきちんと払ってくれた。お釣りが足りなくてまごまごしていると、「お釣りいらないよ~」と言ってくれた人もずいぶんいた・・・(*^_^*)。

兄はその後、21日にもロサンジェルスで講演したが、これも300人もの聴衆があって大成功だったようだ。講演については、兄が旅行記をまとめるものと思う。
* 西海岸の幹線道路 I5(アイ・ファイブ)
アメリカ西海岸の幹線道路 I5(アイ・ファイブ、Interstate 5)を南下した。カナダの99号線がそのままアイ・ファイブになり、シアトル Seattle、ポートランド Portland、サクラメント Sacramento (サンフランシスコの東方約140キロ)、ロサンジェルス Los Angeles、サンディエゴ San Diego を結んでいる。
* ワシントン州
シアトル空港で日本から到着した兄を出迎える。到着は予定通りの9時半だった。シアトル空港はかなり整然と造られていて分かりやすかった。

両替所で兄と両替をし、そのあと、万一の場合の"中継役"を頼んだリッチモンドの友人に、無事、兄に会えたことを連絡すべく電話した。5分足らずの通話だったが、あとでクレジットカードのアカウントに16ドルもついていたのでびっくり。

空港を出発した。東には、カスケード山脈の最高峰マウント・レーニア Mt. Rainier (標高、約4,400 m)のコニーデ(円錐形)が見え隠れする。タコマ Tacoma やワシントン州都のオリンピア Olympia などを経て、さらに南下した。オリンピアでは州議会議事堂が木々の間からチラッと見えた。オレゴン州に近づくと、東にマウント・フッド Mt. Hood (標高、約3,400 m)が見えてきた。

ワシントン州のバンクーバー Vancouver 市を通過してコロンビア Columbia 川にさしかかった。この川を渡ったらオレゴン州だ。アメリカにもカナダにもバンクーバー市があってややこしいが、実は、ワシントン州のバンクーバー市のほうが古い。いずれも、1700年代の後半に大陸北西部海岸を探検したイギリスの探検家、キャプテン・ジョージ・バンクーバーに由来する名前だ。
* オレゴン州
コロンビア川を渡るとすぐに、オレゴン州第一の都市ポートランド Portland がある。ここでは止まらない予定だったが、ちょっとしたハプニングがあって、フリーウェーを降りてしまった。

ポートランドはウィラメット川 Willamette River を挟んで町ができている。ところが、この川を渡る I5 はかなりきつい急カープで走っている。本線"と思って走っていた左側2車線が、実は、I5 を下りて町へ出る車線だった。曲がりくねっているからサインを見落としたのだろうか。車線変更が間に合わず町に降りてしまった。ちょうどお昼を過ぎていたので、ベトナム料理店で昼食を取った。ベトナムの麺がけっこうおいしかった。

昼食後、またフリーウェーに入った。ところが、これまた急カーブの道路で、すぐに車線変更しないと町に戻ってしまう。目の前には車線を分ける"壁"が見えていた。大慌てで左車線を見たら後続車から距離があったので、間一髪、車線変更できた。兄の悲鳴が聞こえた・・・「壁があ~」とかなんとか言ったのかもしれない・・・自分では壁との距離には余裕があったのだが・・・(^_^;。

幹線道路だというのに、こんな急カープでは事故も多いに違いない。なんで、バイパスを造らないのかと腹立たしい気分だった・・・(・_・;。後で分かったことだが、実はバイパス(205号線)があった・・・(^_^;。

ポートランドから南は単調な風景が続いた。牧場のような地形の中に、時々、ゲリー・オーク Garry Oak の林がある。あいにく、曇り空で期待していたカスケード山脈の火山はあまり見えない。

夕方、オレゴン州南部の町アシュランド Ashland にさしかかったので、夕食をとることにした。小さな町だが、お祭でもあるのか町には人通りが多かった。内部がビール工場のようなレストランがあったので入ってみた。ピッツァを食べた。兄がジョッキーでビールを注文したら、バケツほどの大きなジョッキーが出てきた・・・(^_^;。兄が「飲みきれない」と言うので、となりのテーブルでにぎやかにやっていた白人女性グループにあげたら大喜びだった・・・(*^_^*)。
* 荒っぽいカリフォルニアのドライバー
サンフランシスコに近づくに従って車線が多くなった。一番多いところで片側7車線くらいあったろうか。カリフォルニアのドライバーは相当荒っぽい。車線変更を私の直前でする。恐いので、速度制限ぎりぎりの時速70マイル(約112キロ)で走っていると、両側をビュンビュン追い抜いていく。その上、車間距離をとらない・・・バンクーバーでは「2秒ルール」*が推奨されているが、カリフォルニアのドライバーは「0.5秒ルール」くらいで走っている。バンクーバーの"田舎道"しか走ったことがない私は、かなり緊張して運転する羽目になった・・・(^_^;。

旅行前には、どこか交通量の少ない道があったら、経験のために兄に運転してもらってもいいかなと思っていた。結局、そんな道路はどこにもなかった。ともかく、終始、緊張しっぱなしの運転だったのだ。もっとも、復路は慣れもあって、それほど神経を使うことなくスムーズに帰ってこられた。

* 「前の車がある地点を通過してから、同じ地点を通過するまで2秒かけなさい」と言うものだ。そのとき、"One Thousand One and Two Thousand One" と数えると約2秒になる。これは、どんなスピードで走っていても応用できるので、とても合理的なやり方だ。
* 涼しいいサンフランシスコの夏
昔、7月にサンフランシスコに行ったことがあり、そのときコート姿の人がいた。だから、今回も予想してはいたが、サンフランシスコはやはり涼しかった。気温20度くらいだろうか。それでも、地元の人たちは通常よりも気温が高めだと言うことだった。

7月~8月は霧が発生するのでもっと涼しいらしい。9月~10月に好天が続くのだとか。そして、そのあと4ヶ月くらいは雨季らしい。あの辺で雨季があるとは知らなかった。
* ゲィリー・オーク の木
物の本には、「ゲリー・オーク Garry Oak はカリフォルニアからブリティッシュコロンビア州にかけて分布し・・・」などとあるが、確かに、その通りだった。今回、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州と旅してみると、ゲリー・オークがビクトリア以上に目に付いた。ちょっとした林はすべてゲリー・オークの林だ。

別名 Oregon Oak というだけあって、オレゴン州には特にたくさんあった。バンクーバー島のビクトリア Victoria からナナイモ Nanaimo にかけてはたくさんあるが、バンクーバーでは見たことがない。
* あきれたホテル
4月後半に、サクラメント近くのチェーンホテル Extended StayAmerica (ESA)に6月16日からの数日を予約した。5月中旬になって、サンフランシスコへの宿泊に変更されたので、ESA の予約をキャンセルしようとした。

しかし、いくらメールしても返事がないし、なんど電話してもつながらない。10回近く電話してやっとつながった。キャンセルを確認してもらいキャンセル番号ももらった。口約束ではあぶないので、「キャンセル確認のメールをください」と言ったら、すぐにメールが来た。これで"一件落着"・・・と思われた。

ところが、宿泊日直前の6月14日になってESA の予約センターからメールが来た。「6月16日からのお越しをお待ち申し上げます」とあるではないか。おいおい、ちょっと待て!あわてて、またホテルに電話したが、またしても、つながらない・・・つながるときもあるのだが、「少々お待ちください」と言われたあと、"永遠に"待たされてしまう。

10回くらいしたら、やっと通じた。話し方からして、ホテルではなく予約センターのスタッフのようだ。事情と伝えると、しばらくして「今キャンセルしました。キャンセル番号はこれです」と言って新しい番号をくれた。新しいキャンセル番号をくれると言うことは、一月前にはキャンセルされていなかったということではないか・・・(・_・;。

旅行出発の前日15日になって、まだ、すっきりしないので、もう一度ホテルに電話してみた。今度は一発でつながった。メリッサという女の子に状況を話してキャンセルの確認を頼んだ。「お名前は、住所は・・・」などと聞かれた後、「はい、今キャンセルしました」と言う。なんと、昨日もキャンセルされていなかった雰囲気だ。

あきれて物が言えなかった。こんな調子では、後日、ホテル代数百ドルが私のクレジットカードに請求される恐れがある。こちらには"キャンセルの証拠"が取ってあるから、クレジットカード会社に事情を説明すれば取り返してくれるだろう・・・。しかし、その手間がばかばかしい・・・(・_・;。それにしても、アメリカにも、ときどき、めちゃくちゃな商売をする会社がある。