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日本をロシアから救った 小栗上野介 | ★ 小栗上野介関連の動画集 ★ 小栗上野介の寺・東善寺(リンク) |
ロシアのウクライナ侵攻が始まった2022年春以来、私はつくづく思う、「小栗上野介がいなかったら、今ごろ北海道はロシア領になっていた・・・」と。日露戦争(明治37年1904年2月~明治38年1905年8月)で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎は、戦後の明治45年(1912)夏に小栗上野介の遺族を自宅に招き、「日本海海戦で完全な勝利を得ることができたのは、小栗上野介さんが横須賀造船所を作っておいてくれたおかげです」と礼を言った。
日露戦争に勝った日本は樺太の南半分をロシアから譲り受けた。逆に、もし負けていたら北海道はもちろん、本州も危うかったかもしれない。小栗はなぜ幕府内の多くの反対を押し切って横須賀造船所を作ったのか・・・それは小栗が32歳だった1860年に遣米使節団の筆頭三使節の一人として訪米した時、Washington D.C. で Washington Navy Yard ワシントン海軍造船所(地図)を見て、その先進技術に衝撃を受けたからだった。< 参考サイト>
小栗上野介の寺・東善寺 (群馬県高崎市倉渕町)
最近、「東善寺」は、ホームページのURLを http://tozenzi.com と変更した。これまで使っていたサーバー CSIDE がサービスを停止したための措置。
(2024.12.18)
小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ 1827-1868)は幕末の偉人。作家司馬遼太郎は小栗上野介のことを「明治の父」と呼んだ。また、「日本工業化の父」と呼ぶ人もいる。
小栗上野介の像(東善寺) |
幕末の1860年、77人の日本人が世界一周した事実をあなたは知っているだろうか。 私は、子供の頃学校で「咸臨丸に乗って勝海舟ら日本人が初めて太平洋を自力で渡った・・・」と学び、「すごい」と思った。ところが、大人になってからいろいろ調べてみると、咸臨丸の話は誇張で塗り固められていることが分かった。咸臨丸は、小栗上野介らの遣米使節団77名を乗せたポウハタン号の護衛船*にすぎず、“自力航海”とは程遠い状況で、しかも、「日本人初の太平洋横断」でもなかった。さらに言えば、咸臨丸で最上位の人物は木村摂津守であり、勝海舟は摂津守によって同乗させたもらった存在にすぎなかった。 なにはともあれ、“太平洋を往復しただけ”の咸臨丸よりも、江戸幕府の侍たち77人が日米修好通商条約の批准書交換のために太平洋を越えて渡米し、アメリカ東海岸の主要都市(ワシントン**、ボルチモア、フィラデルフィア、ニューヨーク)を歴訪し、さらに大西洋、インド洋を回って世界一周して見聞を広めてきたことの方が、はるかに有意義だったはずだ。それが証拠に、使節団の中で三使節の一人だった小栗上野介は、アメリカの進んだ文明に学んで、帰国後、“新しい日本”を造るために傑出した業績を残した。 * 名目上「護衛船」とはなっていたが、むしろ「練習船」でしかなかった。日本人乗組員の大半が航海経験が皆無だったから、彼らには他の船を護衛するだけの能力はなかったのだ。実際、(勝海舟を含む)日本人のほとんどは船酔いで操船すらできなかった。そして、操船したのは、乗船していたジョン・マーサー・ブルック大尉と10人のアメリカ人乗組員、それにジョン万次郎ら数名の日本人だけだった。 ** ワシントンでは、ホワイトハウスでブキャナン大統領に謁見し日米修好通商条約批准書を渡した。 |
勘定奉行など幕府の要職を歴任してきた小栗上野介は、大政奉還により徳川幕府が終りを遂げると、「もはや自分の役目は終わった」と江戸を引き上げる。そして上州権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に隠棲し、山寺「東善寺」に仮住まいした。彼は余生を村人の教育にささげようとしていたのだ。 * 血縁はない。小栗上野介の子孫は別にいる。 ![]()
小栗上野介が日本の歴史に大きく登場してくるのは、1860年(万延元年)だった。日米修好通商条約の批准を任命された遣米使節団の一員として、アメリカを訪問したのだ。若干33歳だった。 小栗の役割は監察。正使新見豊前守、副使村垣淡路守とならぶ三使節の一人で、重要な役割を担っていた。総勢77名の使節団は、同年1月22日に米艦ポウハタン号で横浜を出港し、ハワイ経由でサンフランシスコに到着。そこから南下してパナマ地峡を鉄道で渡り、アメリカ東海岸の主要都市を歴訪して任務を終える。そして大西洋、インド洋、東シナ海、太平洋を経て8月28日に横浜に帰ってくる。つまり、地球を一周してきたわけだ。その間、上陸した国と地域は、ハワイ、アメリカ本土、パナマ、アンゴラ(アフリカ)、インドネシア、香港などだった。 アメリカ滞在中のフィラデルフィアでは、小栗上野介はアメリカ人も驚くほどの毅然とした態度で貨幣の分析実験を要求して、それまで極端に不公平だったドルと小判の交換比率を是正することに成功する。そのとき、なにごとも白黒をはっきりさせる上野介の態度を見たアメリカ人が、上野介を指して「ノーといった最初の日本人」と評したと伝えられる。
日米修好通商条約は、その後明治政府によって「不平等条約」というレッテルを貼られて、いかにも徳川政府の失策であったかのように印象付けられている。果たして失策だったのだろうか。 また、だれでも最初から完璧に物事を遂行するなどできないのは当たり前だ。長い鎖国時代を終えて、これから外へ目を向けようとした徳川幕府が初めて結んだ外国との条約に、不備がないことを期待すること自体が無理と言うものだ。 |
小栗上野介の功績はたくさんあるが、最大のものは「横須賀造船所の建設」だ。「船を造るだけではなく、それを修理する場所が絶対に必要だ」と唱えた小栗は、「船は買えばよい」という幕末の大勢の意見を押えて、これを決行する。 その後、横須賀造船所は日本の工業全般の基礎となる。横須賀造船所が日本で初めて蒸気機関を本格的に使ったことを考えると、「日本の産業革命は横須賀造船所から始まった」と言えるのかもしれない。
子供のころの小中学校の歴史の授業では、咸臨丸と勝海舟の名前が必ず出てきた。「初めて日本人が太平洋を自力で渡ったときの船」ということで、咸臨丸を「すごい」と思った。 私たちが読んだ小中学校の教科書には、咸臨丸が護衛した使節団本隊による「世界一周」のことは、まったく触れられていない。「太平洋を“自力で”渡った」ことと比較しても、77人の日本人が「世界一周した」ことの方がはるかに意義のあることではなかっただろうか。 ![]() ほとんどの日本人は、「封建制度から明治維新による民主主義への移行」が"絶対的に"正しかった、と信じていると思う。少なくとも、私はそう思っていた。だから子供の頃、小栗上野介の顕彰運動に励む父を見て、「どうして父は、封建制度から民主主義への移行に“反対した”小栗上野介にそんなに力を入れるのだろうか」と、理解できなかった。 小栗上野介も"民主主義"を考えていたと言われる。彼がアメリカで選挙制度について知ることができたためだ。もし、小栗上野介の考えた"民主主義"が達成されていたとして、その後の日本にとって良かったか悪かったかは分からない。しかし、第二次世界大戦まで突き進んでいった日本の姿とは、かなり違ったものになっていたのではないかと思えて仕方がない。 |
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小栗上野介関連の動画集 Youtube や Dailymotion で「小栗上野介」と検索すると、たくさんの動画が検出される。 その中から、いくつかにリンクしてみた。 (注意:ネット上の動画サイトには埋蔵金を採り上げたものもあるが、埋蔵金は全く根拠のない話なので推奨しない。) |
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★1 NHKスペシャル:新・幕末史グローバル・ヒストリー「幕府vs列強 全面戦争の危機」 |
★10 幕臣小栗上野介里帰り/徳川18代目御成行列 |
★1 NHKスペシャル: 新・幕末史グローバル・ヒストリー 「幕府vs列強 全面戦争の危機」 放送日: 2022年10月16日 幕末から明治時代初期にかけてヨーロッパ諸国が日本を狙っていた様子が、各国の当時の重要書類を参照しながら解説される。たとえば、イギリスは大阪から京都、さらに江戸にかけて”全面戦争”を計画していたという。列強と激しい駆け引きを繰り広げたのは、“最後の幕臣”小栗忠順。日本の未来を賭けた闘いの結末は? ★2 NHK またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介 この動画は、動画自体をここに貼り付けられないので、リンクだけにした。 ★3 「歴史捜査」小栗上野介忠順の死の謎20160616 小栗上野介の寺・東善寺の住職(ぶつくさ男の兄)が登場して小栗上野介について語る。 ★4 The ナンバー2 2014 02 小栗上野介 徳川最後の幕臣 |
★8 子供にも分かりやすい動画 「バルチック艦隊に勝てたのは小栗上野介のお蔭だってヨ!」 ~幕末に活躍した”明治近代化の父”~ ★9 Samurai In 1860's NYC
徳川18代目御成行列 ★11 ヴェルニー小栗まつり式典:小栗のまなざし - 小栗上野介公に捧ぐ - 福田洋介作曲 ★12 NHK いっと6けん 群馬県倉渕村 小栗上野介 ★13 小栗上野介の里 総合編(高崎市編) ★14 『小栗忠順(上野介)』明治政府によって闇に葬られた幕末最高の英知【青天を衝け登場人物解説】 ★15【ゆっくり解説】小栗忠順 幕末の日本で近代化を推し進めた男は何故悲しい最期を迎える事になってしまったのか?その生涯を簡単に解説 ★16【小栗上野介忠順①】日本の近代化は一本のネジからはじまった?など学校で教わらない小栗上野介忠順にまつわる歴史の真実11選(前編)トラオの歴史のホント 歴史系都市伝説 |
<関連サイト>
★万延元年遣米使節団子孫の会
★万延元年遣米使節団員氏名
<ハワイの French Hotel 関連>
★Designing Paradise: The Allure of the Hawaiian Resort:万延元年遣米使節団が1860年3月4日~17日の間滞在したホノルルの French Hotel についての記述がある。また、French Hotel を描いた絵も載っている。
★Hawaiian Historical Society No. 10 Honolulu in 1853:同じく French Hotel についての記述がある。"The French Hotel. This building was situated on Fort street, above Hotel, though the premises run through to Union street, as they do to-day." と書かれているが、現在、Union Street はなさそうで、代わりに Union Mall という通りはある。ということで、ホテルはこのあたりにあったのではないだろうか。